R.W.Loveless

ロバート・ウォルドフ・ラブレス(ボブ・ラブレス)



JKGとラブレス

1953年・ラブレスがストック(原型)&リムーバル(削り出す)法を考案したことで,優れた鋼材から簡単にナイフを製作することが可能になりました。
ラブレスは更に、日本でのナイフギルドの創立から流通システムをも含めた、現在のカスタムナイフ全般に渡る基礎を築きました。

ドロップポイント等の基本的なデザインや、フルテーパードタングの発明等で多くの日本のナイフメーカーが影響を受け,日本人の体型・キャンピングなどでの用途に合わせた日本人向けのカスタムナイフが作られるようになりました。

1979年,日本でのカスタムナイフを普及させようとしたラブレスの提唱により,国内で初めてのナイフギルドが発足しました。
1980年よりジャパンナイフギルド(JKG)として活動を開始。
会員数も増え、次々と優れたナイフメーカーを生み出しました。
1982年には一部会としてJCKM(ジャパン・カスタム・ナイフ・メーカーズ)を発足,
1988年ごろから毎年ナイフショーを開催し,
お客様とナイフメーカー・一般ナイフ愛好者などが親睦を深め、現在も会員数を着実に増やしています。

 1929年オハイオ生まれ
 14歳で商船に乗り込み、17歳で空軍に入隊。
 独学で高校卒業の資格を取得し、
 バウハウスのスタッフからデザインを学び、
 さらに、ケント大学で文学と心理学を専攻。
 しかし、海の魅力が忘れられず、
 卒業前に再び船員となる。

 船のロープを切るのに不可欠なナイフを
 初めて自分で作った事が
 契機となり世界一のカスタムナイフメーカーの
 道を歩む。
 画期的な製法やデザイン、
 さらにはカスタムナイフ市場の開発など
 カスタムナイフ発展への功績は多大である。

 2010年9月2日逝去 享年81歳。

ファイター 1980年頃 タイアーツコレクション所蔵






ボブ・ラブレス、ラブレスを語る  
                    

ナイフは人間が考案した最高の道具だ

 私はナイフというものは人間が考え出した最高の道具だと思います。
 歴史的に見ても、いつの時代にあっても最も役に立つ道具でした。
 人類学的に言って、ナイフは2番目に発明された道具だと思います。
 最初はハンマーか棒のようなものでしょうね。
 それがある日たまたま何かに当たって先が欠け、鋭利な部分が出来た。
 それを見て原始人はぴっくりしました。
 切れるから、こうして黒曜石を掘り出し、石のナイフを作ったのです。実に有用な道具です。
 私にとって、ナイフなしの生活は考えられません。

 仕事としてもやりがいのあることです。きつい仕事ですし汚れます。指は傷だらけです。
 でも注文のナイフが完成した時の気持ちはちょっと口では表現できません。
 役に立つことをしたんだ、義務を果たしたんだ、そういう気持ちですね。
 もし、誰も私の名を知らず、ナイフ作りのリーダーだと認めなくても、
 それでも私はナイフを作っていると思います。
 最初のナイフを作って以来、病みつきになってしまったんです。
 鋼を削って、皮やその他の材料を加工し、組み合わせて素晴らしいナイフに仕上げる。
 これ程の達成感が他から得られるでしょうか。これからもナイフ作りはやめないでしょう。



日本へのメッセージ


 日本に来るたびに思うことですが、
 年を経るごとに私が敬意を抱いていた日本の社会に崩壊の兆しが見えます。
 アメリカの場合、私たちは毎日仕事に行くのにピストルを携帯する必要があります。
 私もそのためのライセンスを取りました。
 東京はいい所です。ピストルのことなど心配する必要は全くないですからね。
 ここは安全です。いつどこを歩いても安全です。
 でも、以前に比べると、盗みや酔払い運転が増えています。
 金曜、土曜の夜の新宿にはおかしな若者が増えました。
 これらの現象が一時的なものだといいのですが。

 皆さんは日本の社会の素晴らしさを知らないのでしょうか。
 この流血に満ちた世界で日本のようなところは他にはありません。
 親を敬うこと−85歳のおじいさんは隠居して25年になるのに、
 家では一番先に風呂に入るそうですね。
 このようなことが日本人の価値観を形成してきたのです。
 でも、こうしたことが崩れつつあります。師と弟子の関係も崩壊しそうです。

 「2500年もの歴史をもつ国の人々に私などが意見を言う権利があるのだろうか」と
 私はいつも思います。
 アメリカは200年の歴史しかない若い国です。アメリカ人は何も判っちゃいないんです。
 そのことを日本人は教えてくれました。
 ですから今までのように、アウトドア、つまり自然の価値を正しく評価して下さい。
 幸福な生活を送る唯一の方法は、自然の中に出て生活のバランスを取ることなのですから。




ランドールナイフを手に入れられなかったことが自分でナイフを作る動機になった
ニューヨーク港のちょうど向いにあたるポート・ネワークで港湾タンカーに乗って仕事をしていた頃、確か1953年頃だったと思います。ある土曜日、ランドールナイフを捜そうとニューヨークへ行きました。アバークロンピー・アンド・フィッチへ行った訳です。ところが応対に出て釆た人が実に横柄で、ランドールのナイフが欲しくてわざわざジャージーから来たんだ、と言っても、「それじゃ、少なくとも9カ月は待っていただかないと」って言うんですね。それで「では、注文できますか」と開いたら、「いつ品物が入るか判りません」という返事です。

さすがの私も腹が立ちましてね、「わかりました。御親切にありがとう」と言って店を出ました。そして、船に戻る途中で手に入れたバネ鋼で、帰ってから自分でナイフを作ったんです。1カ月後に、自分で作ったナイフを持ってアバークロンピーに行ったんですが、例の店員はクビになっていませんでした。多分、接客態度に問題があったんでしょう。その時私は、パット・デブリンという人に合いました。彼は刃物職人で、フロア・マネージャーでしたが、私のナイフを見るなり気に入り、すぐに何本か作ってくれないかと言ってくれました。
そんなことがきっかけで、私はナイフを作るようになったんです。


もやい綱を切るジャックナイフが必要だった
船に乗る時にナイフが必要だったんです。AYOクラスの船というのは小さくて、普通は外洋には出ないんです。ガソリンをネワークのサン・オイル・カンパニーのターミナルからハドソン川を遡ってロングアイランドヘ出、ブリッジポートやニューポートに運び、小売業者に売り渡すことが私たちの仕事でした。ところが船が小さいので、岸壁に横付けする時に船体をローフで岸壁に縛りつけなければならないんです。普通は縛ったりほどいたりしているわけですが、時々そのロープを一気に切ってしまわないと岸壁に激突して船が壊れるということも起ります。そんな時のためによく切れるナイフが必要だったんです。

また、たとえば、出航の時にもやい綱をはずすわけなんですが、何かの拍子に綱がひっかかったりすると、船がはずみで逆戻りして岸壁に激突してしまうんです。そのような時には船を守るために綱を切るわけです。特にガソリン(クリーンオイル)を扱っている場合には危険ですからね。少しの衝撃でもすぐに爆発してしまいます。ですから、いいジャックナイフがないものかと捜していたんです。

確か、1953年の12月頃だったと思いますが、「トゥルー・マガジン」という雑誌に、ワイアット・ブラッシングという人が書いたランドールナイフについての記事が載っていました。それを読んで、ランドールを世界一のナイフだと思い込んでしまいました。もちろん、そうではなかったんですが、当時の人は皆そう思っていました。それで、ブラッシングが紹介していたアバータロンピー・アンド・フィッチに、ランドールナイフを買いに行ったんです。そして、先程もお話ししたように冷たくあしらわれ、船に戻って自分で作ったというわけです。例の購買担当でもあったパット・デブリンは実にいい人で私の持っていたナイフを見るなりすぐに注文をくれました。「店に置きたいんだけど作ってくれないか」それで、「とにかく初めての作品だから、あと2、3本式しに作らせて下さい」と答えて、戻ってきました。それから3、4週間で3本完成させて店に持って行きました。店では1本につき14ドル払ってくれました。1954年の春のことです。それからしばらくは何も言ってこなかった。当時、私はデラウェア州のクレアモントに住んでいましたが、2ヶ月も3ヶ月も店から何も言ってこなかったので、どうしたんだろうと思い、ニューヨークの店に行ってみると、なんと、土曜日の朝9時にショーケースに並べた3本のナイフが、昼にはすべて売れてしまい、デブリンは一生懸命に私の居所を捜していたということで、もっと作ってくれないかと言ってきました。「何本欲しいんだ」と聞くと、「少なくとも1グロスだ」と答えました。私は一瞬考えました。「1グロスっていうのは1ダースの12倍だから・・‥‥144本ですか」彼はうなずきました。しかし、私はためらいました。なぜなら、その頃の私の道具ときたらとても粗末なもので、グラインダーは洗濯機のモーターに砥石を取り付けただけのものだったし、それに仕事場なんてありませんでした。それを話すと彼は「では、半グロスにしよう」と言ってきました。「その方が少しはましだ」ということで了承しました。

早速ウイルミントン・トラスト・カンパニーのクレアモント支店に行き、デブリンがくれた注文書を見せました。そして、「ニューヨークの会社から注文を受けたんだが、設備や道具がないのでお金を貸して欲しい」と頼みました。1本のナイフの値段は20ドル7セントに上っていましたから、全部で1500ドルの取引きだったわけです。銀行員は「ラブレスさん、おいくら御入用ですか」と尋ねましたので、「1000ドルを3ヶ月間」と答え、3ヶ月過ぎたら全額まとめて返すと約束しました。実際、私は6週間で仕事を終え、支払いを受け、銀行には予定よりずいぶん早く返済することが出来ました。それ以来、ウィルミントン・トラスト・カンパニーにはずっとお世話になっています。特にマネージャーとは親しくなりました。私はあの時の信頼を決して忘れません。今では、担保がなければ何処も貸してくれませんが、注文書一枚で、1000ドルを貸してくれたんですからね。銀行の商売の仕方としては危険きわまりないことでしょうが人間味がありましたね。忘れられない思い出です。

その頃、最高のナイフはガーバーだった
ガーパーは、1954年当時、マグナムハンターというナイフを作っていました。現在、米国ではもう作られていませんが(日本向に作られている)、世界中のどのナイフよりもはるかに良質のものでした。それは実に大きなナイフで、刃渡りが5インチから5インチ半ぐらいあり、材料は研磨することが難しいM2高速度鋼を使っていました。今でもこの材料を使っているハンティングナイフはありますが、切れ味が長持ちする点で他とは比較になりませんでした。私のナイフはアバークロンピーから売られるようになると、すぐに34ドル50セントになりました。当時、ランドールナイフは29ドル50セント位でしたから、かなり高い評価を与えられたわけです。作家のヘミングウェイは最後のアフリカ旅行に私のナイフを3本持って行きました。そして、帰国する時彼はそのナイフを原地の子供に与えています。

私の望みは、ガーパーの15ドルのハンティングナイフと同じ切れ味の手作りのナイフを作るようになることでした。
それには12年かかりました。

ランドールとラブレスの違い
私のナイフとランドールナイフの違いは、まずデザインです。ランドールはハンドルが丸かったんですが、私は卵型にしました。手にぴったりなじむように。次に鋼材も良質のものを使いました。ジュサブ139B−という鋼種です。これはニッケルを混ぜたノコギリ用の鋼材で、エンジン付のロータリー式芝刈機が登場した頃に製造されたものです。この鋼材は実に硬く、しかもニッケルが入っているからサビません。私はこの139Bを1954年から1964年まで使っていました。カリフォルニアにきてからもしばらく使っていたわけです。しかし、これも次第に手に入らなくなりました。今では全然生産されていないようです。

マイスターから作り方を学びはしなかった
手先が器用だったのかもしれません。でもアバータロンピー・アンド・フィッチから注文を受けた頃は、冶金学についての本をむさぼり読んでいました。勉強は船の仕事が非番の時にやっていました。温度をどうするかなど、鋼材についての知識をひと通り身につけるまでに半年ぐらいかかったでしょうか。

また幸運なことに、ジェサブ・カンパニーの鋼材のカタログが手に入ったんです。ジェサブの工具用の鋼材は15〜20種類ぐらいあるんです。それを全部調べてみて、ニッケルを2.5%含有した139Bが一番良いことが判りました。

話は少しそれますが、1900年代になると戦争のやり方がひどく変わりました。ドイツのエッセンに住んでいたフリードリッヒ・クルップは装甲用の鉄板にニッケルを混ぜたんです。それで装甲は従来よりも強くなって、砲弾が当っても小さな穴ができるだけで、砕けるようなことはなくなりました。これはすごいことですね。確か1904年のことだったと記憶しているのですが、自信はありません。それはともかく、クルップのところには注文が殺到したそうです。

ナイフを作り始めた時、私はナイフの刃に2つのポイントがあることに気付きました。1つは磨耗に強いこと、2つは固いものをたたいた時に割れないことです。そして、ジュサブ139Bをカタログで見た時、何かひらめくものがありました。それから15年後、ジュサブ・ステイール・カンパニーの主任冶金技師と手紙のやり取りをする機会があり、彼はアメリカの鋼材の中でハンティングナイフに最も適しているものは139Bだと思う、と書いてきました。私の感が間違っていなかったことを知ってうれしかったのを憶えています。しかし、現在ではニッケル含有率の高い鋼を手に入れるのが難しくなりました。ニッケル含有率が高いといっても2、3%なんですが。

最初のナイフはパッカードのスプリングで作った
当時、船の機関室に古いグラインダーがありました。放ってあったんです。回転部分にかなりガタがきていてバランスがとれないんです。グラインダーの砥石は陶土に酸化アルミニウムを混ぜて作ります。型に流して、酸化アルミニウムが均等になるように、よく混ぜて、焼くわけです。しかし、理論的には均等になるはずなのですが、実際には、酸化アルミニウムの濃度が片寄ることがしばしばあるんです。そうすると濃度の薄い部分が速く進むことになり、回転にムラがでるんです。

あのグラインダーには全くまいりました。でもなんとか削り上げて、次にヤスリを使い、さらにサンドペーパーで仕上げました。暇を見つけては作業を進めて、3週間位、時間にして70−80時間で1本作ったことになります。この最初のナイフは我ながら傑作だと思っています。なぜなら、船で数ヶ月使い、後に数年間ハンティング用に使いましたが、全く問題がなかったからです。このナイフの材料にはパッカードの後輪のスプリングを使いました。アバークロンピーから帰る途中、ポート・ネワークでバスを降りて、そこからタクシーで船の停泊していたパラマス通りに向っていたんですが、3、4マイル行ったところに何軒か解体屋があったので、そこでタクシーを停め、解体屋に入り、「車のスプリングでナイフを作りたいんだ」と言うと、従業員の黒人が私の顔をじっと見ながら、「だんな本当にいいナイフを作りたいのかい」って開くんで、「そうだ」と答えると、「じゃ、ちょっと待っててくれ」と言って、しばらくスプリングの山の周りを歩くと、そのうちの1つを取って、こう言うんです。「これは最高ですよ。今までに作られた中じゃ一番って言われている39年型パッカードのスプリングだからね。これだけありゃいいのがしこたまできるよ」と言って、そのスプリングを溶接器で適当な大きさに切断してくれました。全部で6本。厚さ1/4インチ、長さ10−11インチ、幅2インチ位の大きさでした。この時もラッキーだったんです。後で知ったことですが、第2次世界大戦前のパッカードのスプリングは、1.75〜1.8%のニッケルを含んだ実に質のいい鋼材を使っていたんです。自分で知らないうちにこういった良い材料を手にしていたんですから、ラッキーとしか言いようがありません。

ナイフを製作する上で最も重要なことは、いかにデザインするかだ
ナイフを作る時最も大切なことは考えることです。作業場に足を運ぶ前に、自分は今、一体何をしようとしているんだろうと考えること、そう、感じることです。どういうナイフにするのか、どういうデザインにするのかなどと頭の中で思い描いてみるんです。それから、見てくれを良くするのは大切なことです。私たち人間は実に視覚に左右され易い存在です。アメリカ人に比べて、特に日本人は視覚に訴えることが上手です。ですから、もしアメリカに帰って、誰かに「どうしたら商売がうまくいくか、その秘訣を教えてくれ」って言われたら、こう言ってやりますよ。「お前さんのケツっペたを飛行機に乗っけて東京に行くんだな。そして1年間、よく見、よく学ぶんだな」って。日本人は商売の神様ですね。そりゃもちろん日本人だって我々のものを真似ています。フライドチキンやゴールデン・アーチズやデイリー・クイーンなどのフランチャイズ店が日本にも進出してきてますからね。しかし、私はそんなことを言おうとしているのではありません。いろいろな製品を見ているとアメリカのものをはるかにしのぐものがたくさんあることがわかります。デザインの点ではスカンジナビアのものにほんの少し劣るかも知れませんが。ヨ一ロッパでもデザインは洗練されてきましたが、アメリカはこの点ダメですね。

日本人は売り方がうまいんです。世界広しといえども、日本人にかなう民族はいませんね。使い易くするにはどうするか、人目を引くにはどうするか、ということを考えてデザインしている。それがセールスにも大きな影響を与えるんですね。日本がイギリスのオートバイ業界や英米の自動車業界にどれ程のインパクトを与えたか見ればよくわかります。日本の車を差し置いてフォルクスワーゲンを買うなんて愚の骨頂です。払う金が同じだったら、日本製がー番いい。それに種類もいろいろあるしね。そして、成功している理由のかなり大きい部分がデザインの良さにありますね。そして、ナイフも第一にデザインですよ。私がナイフを作り始める前に考えるのはそのことです。私も長年この仕事をしてきて、どういうものが売れるかわかってきました。もうだまされません。

良いナイフは持つと良い気持もこなる
あるナイフが良い品質か悪い品質かを見分けるのは、表現し難いですが、直感的なものです。ただわかるんです。持った感じがいいとか、バランスがいいとかです。心理学者がよくいう「筋肉運動知覚」(Kinesthetic)です。estheticというのは外界の刺激に対する反応で、Kifeは触覚のことです。我々の周囲には触覚でもって知覚するものが意外と多いのです。舌だって舌触りといったりするでしょう。とにかく、いいナイフを持つといい気持ちがするんです。
見た眼にもいいし、形や色も魅力的です。こういうものはやはり売れますね。

また、切れ味を試すために簡単なテストをします。ものをナイフで切る場合2つの方法があります。第一はナイフをそのまま下におろす方法。これはセビリアリングカットと呼ばれています。つまり、切りたい所に刃をあてがって、下に力を入れて2つに裂いていく方法です。もう一つは、刃を横に滑らせる方法です。のこぎりで切る時のような動作です。

あるドイツの科学者が、ナイフの切れ味というものを科学的かつ正確に調べる方法を見つけようと努力したのですが無理でした。経験的に言って、一定の鋼材を一定の方法で熱処理を、一定の方法で研磨すれば、一定の結果がでると思うんですが。

ところで私の場合は、自分で作ったナイフは全部1−2時間試し切りをしてみます。そして、ナイフの切れ味を決定的にするのは熱処理の仕方にあるのです。

鍛造技術は日本が最高
私の場合、熱処理はカリフォルニアで一番腕のいいと思う人に任せてあります。炭火は使いません。実に高価なものなんですけど、真空炉で処理します。熱処理の聞、全く空気に触れないので一定の品質のものが得られます。

その点、日本刀の独特な製造方法には興味があります。アメリカでも、全く同じではありませんが、少し形の違った鍛造の製法はあります。私は日本で2人程刀鍛冶に合って、作業を見せてもらったことがあります。
関に行った時には、関の孫六の刀工の仕事振りも見ました。まず熟を加えてたたき、折る。これは薄層鍛造と呼ばれるもので、薄層を作っていくやり方です。言ってしまえは簡単ですが、やはり日本の技術は最高です。人間国宝として大切にされるのももっともなことですね。アメリカの職人は足元にも及びません。これだけの技術というのは、たぶん伝統と修行の上に成り立っているのでしょう。代々父から子へ伝えられるものですよね。人から聞いたところによると、関の孫六は19代目か20代目かだそうですね。

数年前私はあるナイフショーでデリル・メイヤーズと話をしたことがあります。その時メイヤーズは「アメリカに限った場合、鍛造加工した刃物はかなわない」と言いました。これにはちょっととまどいました。というのは我々とは反対のナイフの作り方をしているビル・ブラッドウエルやビル・モランと話をした時には、「あなたたちのナイフで私たちのものよりいいものはひとつもない」と自負していたからです。ですから私はデリルにもし鍛造刃物の方が品質が良いのであれば、なぜ刃物全部を鍛造で作らないんだろう」って聞きました。するとデリルは「ポブとんでもないことだよ。鍛造で作るナイフは収集家のためのもので、ユーザーのために作ったものじゃないんだよ。我々の鍛造技術では、誰も君のところの154CMトウール・スチール刃よりいいものは作れないよ」この意見にはビル・モランもビル・ブラッドウェルも同意しないでしょう。ビル・ブラッドウェルは、自分こそは世界一のワーキング・ナイフを作っていると自負しています。

大切なのは学ぶこと
自分をすでに完成された存在とでも思っているのでしょうか、
他人のものを鑑賞して学ばうという心の持ち主はほとんどいませんね。
人間なら学ぶということが必要でしょう。学ぼうという気持ちがあれば、
教材のある所どこへでも行くでしょう。現に私の知っている人の中で、
頭がいいと言われる人たちは、皆そういう態度の人です。
新たな知識を受け入れようという心があるんですね。
しかし、だからといって何でもかんでもスポンジのように
ただ吸い取ってしまうのも困るのです。ちゃんと選択しなければね。

私は約24のナイフ工場を見学しましたが、
アメリカのナイフ工場からは学ぶものがほとんどありませんでした。
むしろ私が教える方でした。
私は今や「ナイフ職人」というよりも「先生」と呼ばれる部類に入れられてしまったのです。

その点日本は絶好の場ですね。第一、若者が勉強熱心です。
それに優れたナイフ職人が2人います。相田義人と古川四郎です。
相田は爪切りを作っていて、その製品は私の知る限りでは全世界に出まわっています。
その12−15%が海外向けで、大変に近代的な工場を持っています。
冶金方法が違うんですね。
切れ味が全然違います。彼の家は昔から鋼を扱っていたせいか、
生まれつきのものをもっていますよ。「天斌の才」というのでしょうね。
古川はリバーサイドの私の工場で1カ月間勉強しました。
なかなかいいものを作りましたよ。
とにかく2人とも才能に恵まれていますし、アメリカのどの職人と比べても遜色ないですね。


製作本数1万
今までにどのくらいのナイフを作ったことになりますかね。デラウェアにいた時分に約3000本、カリフォルニアに移ってから5000〜6000本といったところでしょうか。これを1954年〜1981年の27年間で作ったわけです。デラウェア時代のナイフはもう残ってないでしょうね。当時のものはあまり高くありませんでしたし、エ程も簡単なものでした。今ではラブレス・ナイフは目の玉が飛び出る程高くなってしまって、使っている人もほとんどいません。家宝にしてとっておくんです。
しかし一方で、スクラップにしたものもかなりありますよ。問題はいつも熱処理の部分にあります。熱処理に問題がある時は、熱処理をしている人間だけでなく私も必ず気づきます。そして途中でハネてしまいます。過去10年で300ポンドぐらいはスクラップになっていますね。ひどい材質の鋼をつかまされたこともありますしね。クルーシフリレ鉄鋼会社の製品でしたが、全部スクラップにしました。400ポンドありましたがね。

ラブレスナイフは実用品
有名人も結構私のナイフを買ってくれますが、そのことについてはあまり触れたくありません。理由は2つあります。第一に、有名人はナイフを買うのではなく、ラブレスのナイフを買いに来るということです。いわゆるブランドで買うんです。第二に、有名人が買ったから私も買おうという基準で買って欲しくないということです。ナイフの良し悪しの判る人間に買って欲しい。ナイフに限らず道具というのは、自分で満足したものでないとダメなんです。一度に1ダースも1ダース半も買っていくような人間にでなく、本当のアウトドア愛好者に売りたいのです。

ヘミングウェイがアフリカに行った時に、彼の案内人だった人(たぶんシャンバ族の人だと思うんですが)にお礼として、私がデラウェア時代に作ったスキニング・ナイフをあげたそうなのです。その時案内人は「これぞ世界一のナイフだ」と言ったそうです。うれしいですね。

私は別に敬意も払いませんが、私のナイフのコレクターもいますね。ニューヨークにはハンドルが象牙の私のファイティング・ナイフを72本だったか74本だったか持っている人がいます。私が作ったものの80%です。また、メリーランドのボルチモアにアル・ウィリアムズという人がいて、「ラブレス・ロゴスの伝説」というコレクションを持っています。私の初期の作品から最近のまで、試験的に作ったのまで含めて集めているんです。それは素晴らしいものです。でも私のものしか集めていないからダメなんです。他のが全然入ってないんですからね。

その点日本の刀のコレクションは素晴らしいですね。皇室には代々の刀を集めたのがあるのでしょう。国宝だと思うのですが、日本の刀工のほとんどの作品が集めてあります。個人のものでも、ムラヤマ・モータースの村山さんや鈴木さんという医師のコレクションなどは素晴らしいものです。

新作の産みの苦しみをどう乗り越える
日本人の場合は禅の思想の影響からでしょうか、何か新しい作品とかアイデアを作り出そうとする時に、考えるべき対象とは全く別のことを考えたり、行動したりしますね。たとえば美しい山とか。西洋人の心はそこまで到達していません。私の場合など、何か悩みがあったりすると、私は仕事をやめて何日聞かそこらを歩き回ったり、オートバイ旅行したり、小さな双発機で飛んだりします。そうすることによってスカッとすることもありますね。また、「タイムバインダー」と言って、空間だけを歩き廻るのではなく、時間の中を歩き回ったりもします。つまり、そのようにして自らを見つめる機会を求めます。それは時として妻も子も犬も友人もいっさい寄せつけません。自分だけの世界で問題に直接的に真っ正面からぶつかって、ものごとを解決していこうと私は考えているからです。

 資料提供/STAR CLOCK CORP